浅草を歩く(その12)・浅草神社(2/3)
境内の右手に「神楽殿」。 神楽殿に松が使われる理由は、松が神聖な樹木とされ、神社の境内に飾られることで、神楽の場を清浄化する役割があるためです。また、松は長寿や縁起の良い象徴としても知られており、神楽殿に松を飾ることで、神楽の儀式をより一層神聖なものにする意味合いもあるのだ と。ポスター「浅草神社例大祭「三社祭」 フォトコンテスト」。 「令和6年度 三社祭大賞 「三社祭の賑い」」、槌谷義郎氏の作品。令和7年度「三社祭」👈️リンク ポスター。 令和7年5月15日(木)~18日(日)開催「河竹黙阿弥顕彰碑河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)は江戸末期から明治中期まで活躍した歌舞伎の狂言作者である。文化13年(1816)3月江戸日本橋通2丁目4代越前屋勘兵衛の長男として生まれ幼名を吉村芳三郎といった若い頃は遊楽生活を送ったが 20歳で狂言作者五世鶴屋南北に師事 はじめ二世河竹新七の名を継いだ 天保14年(1843)江戸三座が浅草猿若町に移転し終ると間もなく黙阿弥も芝からこの浅草の正智院の地内に居を移し 四世市川小団次に多くの新作世話物を書いた 明治維新後は九世市川団十郎 五世尾上菊五郎 初代市川左団次のために世話物 時代物のほか舞踏劇などを執筆した 明治14年(1881)古河黙阿弥と改名し その後も劇作を続けた 作者生活50年 著作は350余編 江戸歌舞伎後半期の第一人者の地位にあり 特に 世話物を得意とした その音楽的効果や味わいは黙阿弥調として知られる代表作には「青砥稿花紅彩絵(あおとぞうしはなのにしきえ)(白浪五人男)」のほか「三人吉三廓初買(さんにんきちくるわのはつかい)(三人吉三)」 「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)(河内山)」などがある 明治26年(1893)1月歿 78歳 昭和43年(1968)10月 東京百年を記念し建立する 東京都台東区長 上條貢」 「花塚碑」。 「花塚碑「濁流」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子たちによって建てられた。笠翁斉乱鳥は、享和3年(1803)7月晦日死去。享年88歳。浅草本然寺(曹洞宗、現西浅草3-25-3)に埋葬。悲しんだ弟子たちが、瓶に花を挿したが、衰える花を惜んで地中に埋め塚とした。戦後、昭和31年(1956)観音堂裏手東北より移転。 建碑 文化元年(1804)3月17日「かめに花を挿こと古しへより聞え来れるを近き代には其花をさすにのろ有事と成り其流くさくさに分れぬ。笠翁斉乱鳥其わざを好てこの大城のもとに濁流としなへて弟子あまた有き。こその文月つごもり、齢八十餘八にてみまかり給。浅草本然禅寺に葬ぬ。ことし3月17日、かの翁の親しき友垣に弟子の集りて、かめに花をさして手向つ。其花のなごりを空しくなさむ事を惜み、はた翁の名の朽さらん事をおもひて、浅草寺の大ひさのみ堂のうしろ清らなる所を撰て其花を埋めて花塚と名付て後の世に残しなんとす。彼弟子の中、平石氏乱雨翁え残されしほほに笠翁斉の名を残したれば人々共に計りて其事成ぬ其わきかいつけよとこはるるにいなひあへずして記つ。 「文化元年七月千蔭」 浅草観光連盟」 「江戸・東京の農業 檜前(ひのくま)の馬牧(うままき)大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。浅草神社の祭神で、浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮嶋の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。 平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法執行五十周年記念事業」」 「初代 中村吉右衛門 句碑「女房も 同じ氏子や 除夜詣」 吉右衛門」。 「初代 中村吉右衛門 句碑「女房も 同じ氏子や 除夜詣」 吉右衛門建碑 昭和ニ十八年四月ニ十一日初代 中村吉右衛門 歌舞伎俳優 日本芸術院会員 文化勲章受賞明治十九年三月ニ十四日 浅草象潟町に生まれ 幼少から舞台に立って名声を得 長じて大成し大正・昭和期を代表する歌舞伎俳優となった。高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人となり 句集も三冊に及ぶ 初め秀山と号したが 後に吉右衛門の名前を用いた妻千代もまた浅草の生まれ この句の由縁である 昭和十四年冬の作 この碑は自詠自筆である 実名 波野辰次郎昭和ニ十九年九月五日没 享年六十八 浅草観光連盟」 「扇塚」碑。 「古扇 納め箱」 扇塚は使い終わった扇を供養する塚である。 「古扇 納め箱わたくし達日本舞踊を志すものにとりまして扇は欠くことの出来ない品でございます。使い古された扇はどうぞこの箱にお納め下さい。毎年四月八日にご祈祷の上、扇に感謝のご供養を致します。 花柳流花柳会」「初代 花柳壽輔句碑」。「雷は 田町をよけて 鳴りわたる」 「初代 花柳壽輔 略傳出生 文化4年2月19日、芝・新明にて出生6才 文政9年、四世西川扇藏の許に入門し舞踊修業の道に入る。8才 文政11年、七世市川団十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。19才 天保10年(1839)、旧師西川扇藏の許に復帰し、西川芳次郎として振袖師の第一歩を 踏み出す。25才 吉原の玉屋小三郎より俳号の「花柳」なるの二字を与えられ、以後花柳芳次郎と稱す。 爾後、七世市川団十郎が嘉永2年(1849)、当時市川海老藏を名乗り、その俳名「寿海」に 因みて「壽」の字を贈られ、29才にして初めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、 と共に、諸流に冠絶して振付の第一人者として謳はれる事、実に半世紀。その作品は 一千五百種を超え、就中「土蜘」 「茨木」「戻橋」「舟辯慶」の如きは不滅の傑作と 讃られる。83才 明治36年(1903)1月28日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ 其の生涯を終わる。 浅草観光連盟」 「手水舎」。「手水舎」には水を吐く龍が3匹。裏側に廻り込んで。水を吐く龍に近づいて。「文化財愛護 重要文化財 浅草神社(三社様)」。 狛犬越しに社殿を。「浅草神社台東区浅草二丁目三番明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(一六四九)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(一八六八)三社明神、同六年浅草神社と改称した。現在の社殿は、慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(幣殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数が多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。 平成六年三月 台東区教育委員会」」 社殿(拝殿・本殿)前の狛犬(右)。社殿(拝殿・本殿)前の狛犬(左)。「おみくじ処」、その奥に「絵馬掛け所」。 様々な絵馬が。「浅草神社社務所」。 「浅草神社神輿庫」。 三基の神輿が置かれていた。「浅草神社」(通称三社さま)には、このため、三基のお神輿があります。三社祭では、この三基に其々「土師中知」「檜隈浜成」「檜隈武成」がお乗りになるとし、町内神輿とは別格にして「宮神輿」と呼びます。一番大きな鳳凰の飾りがついているのが「土師中知」の「一之宮」疑宝珠(ぎぼし)が「檜隈兄弟」のそれぞれ「二之宮」「三之宮」です。一之宮神輿(中央)高さ:1,770mm幅:1,850mm鳳凰の高さ 660mm台輪 :1,080mm(三尺六寸)総高さ:2,430mm本体重:622.2Kg担ぎ棒総重量 404.0Kg二之宮神輿(右)高さ:1,780mm幅:1,850mm疑宝珠の高さ:540mm台輪 :1,080mm(三尺六寸)総高さ:2,320mm本体重:585.2Kg担ぎ棒総重量:424.0Kg三之宮神輿(左)高さ:1,780mm幅:1,850mm疑宝珠の高さ:540mm台輪 :1,080mm(三尺六寸)総高さ:2,320mm本体重:585.2Kg担ぎ棒総重量:424.0Kg「浅草神社【宮神輿】一之宮・ニ之宮が昭和ニ十五年に、三之宮が昭和ニ十八年に氏子により奉納されたもので、胴が細く屋根四隅の大きい造りとなっており、一之宮の頭には鳳凰が、ニ之嘗・三之宮には擬宝珠が飾られています。一之宮に上師真中知命(はじのまなからのみこと)ニ之宮に檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)三之宮に檜前武成命(ひのくまのたけなりのみこと)三柱の御祭神がそれぞれに遷座いたします。」 浅草寺本尊御示現【宮神輿「堂上げ・堂下げ」】三月十七日(堂上げ)・十八日(堂下げ)昔の祭礼である古儀の一部を現代に復元させようと、三基の宮神興にお移りになった三柱の御祭神(三社様)が浅草寺本堂に籠られ、聖観世音菩強(観音様)と一晩をお過ごしになる「堂上げ・堂下げ」の神事が、平成十ニ年三月の御縁日に浅草寺の仏事「浅草寺本尊示現会」を慶賀し、氏子の手により再現・斎行されています。その後も、本堂の修復等で唐櫃による移御の年もありましたが、浅草誕生の歴史を内外に広めるべく、また浅草の町の更なる隆盛を願い、神仏習合の名残りを吉例として毎年恙なく斎行されています。浅神社例大祭【三社祭】五月第三週の金・土・日曜日「三社祭」は毎年五月に行われる浅草神社の祭礼で、氏子四十四ヶ町と浅草組合で構成される浅草神社奉賛会により運営されています。江戸下町の風情を残した勇壮で華やかなお祭りで、町会毎に揃いの半纏をまとった勇ましい担ぎ手達が、戚勢良く御神輿を担ぎ、浅草の町全体を練り歩きます。初日の金曜日は、お囃子屋台・金棒・鳶頭木遣り・総代・各町役員・びんざさら舞・芸妓連の手古舞・組おどり・白鷺の舞・屋台で編成された「大行列」が浅草の町を歩きます。また、浅草神社の社殿と神楽殿で、東京都無形文化財に指定されている「びんざさら舞」の奉納が行われます。中日の土曜日には、「例大祭式典」のあと、正午より「町内神與連合渡御」が行われます。浅草氏子四十四ケ町の町内神輿壱百基が浅草寺裏広場に参集、一基ずつ発進し、浅草神社でお祓いを受けた上で各町会に渡御します。始まります。その後、宮神輿が各町会を渡御し、夕刻に浅草神社へ戻る「宮入り」となります。三日間で約ニ百万人の人出が見込まれる三社祭は、東京の初夏を代表する風物詩の一つになっています。※「三社」とは、浅草神社の旧称「三社権現社」からの呼び名。令和七年浅草神社例大祭「三社祭」五月十六日(金)・十七日(土)・十八日(日)」 「神輿庫」横には多くの提灯が並んでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・