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カテゴリ:国内旅行
帰路に甲斐武田神社に立ち寄る。武田神社はその名の通り、武田信玄を御祭神として お祀りしている神社。武田神社は武田信虎・信玄・勝頼の三世代が約63年間に渡り 居住した躑躅ヶ崎(つつじがさき)館跡に大正8年(1919年)に創建された神社で, 国の史跡にも指定されているのだ。 武田氏は清和源氏で、新羅三郎義光の後裔。先日ブログにアップしたが、その発祥地は ここ甲斐国北巨勢郡武田村といわれているが、 常陸の武田郷とする説が有力となって いるのだ。 躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)配置図。色の付いている部分が、現存している遺構と なっているとのこと。武田信玄は、「人は石垣人は城」の文句で象徴されるように、 「城よりも人の心を掌握する事こそが大事である」と言っていたといわれる。 そのため、自身は巨大な城郭に住むことはせずに、平地の居館に住み続けたと。 主郭奥にある天守台跡には近づけなかったが、武田信玄は天守閣を造らなかった のだろうか? 神社の入り口には、有名な信玄の旗指物(軍旗)が。武田信玄の軍旗に用いられた言葉 「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」(疾きこと風の如く、徐かなること林の如し、 侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)は、中国の兵法書『孫子』からの引用で、 信玄公と共によく使用される言葉"風林火山"はこの軍旗に由来しているのだ。 武田神社全図、思ったほど広くない神社。 太鼓橋を渡り階段を上ると武田神社と書かれた鳥居が。 鳥居をくぐると左手に「甲陽武能館」。 「甲陽」とは甲斐の国が輝くさまを表わしているとのこと。そして武能とは、武田氏の 「武」であり、能楽の「舞」につながり、「武芸」を嗜むものは同時に「舞」をも嗜み、 その拍子を己の武芸に取り入れたと伝えられているとのこと。 第二の鳥居下からの本殿。 本殿横には武田二十四将の大盃が。中央には家紋・四つ割菱(武田菱)とその下には 『武田二十四将』という歌の歌詞が書かれていた。 本殿右手には武田神社宝物殿が。 写真撮影禁止の館内で唯一、撮影が出来る武田信玄公の像。 そして特別展示の風林火山孫子の旗。 日本百名城のスタンプをGETし、徒歩で400m程離れた護国神社へ。 西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人・軍属の英霊25039柱を祀っているとのこと。 そして更に進み武田信玄公墓所へ。 天正元年(1573年)4月12日、信州伊那駒場で53歳の生涯を閉じた武田信玄公は、 混乱を避けるため、その死を3年間秘密にするよう遺言を残したと。3年後、塩山の 恵林寺で葬礼を行い、埋葬されたが、死を隠していた3年の間葬らえていたといわれて いるのが、こちらの場所とのこと。 この地は武田二十四将の一人である土屋右衛門昌次の邸内だったと。 信玄公の墓石には「法性院大僧正機山信玄之墓」と刻まれていると。 そして町並みの風景を楽しみながら、山梨大学の脇を抜け甲府駅に徒歩で向かう。
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Last updated
2020.09.06 19:56:16
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