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カテゴリ:JINさんの農園
「第四章 歌川国貞の肉筆画帖
極彩色で細密に描かれた本作は、江戸の二大歓楽街である芝居町と新吉原の情景を6図ずつ、 合計12図とした大画面のアルバムです。芝居町の六図は絵巻のように展開し、市村座の前に 人が集まる情景、開を待つわくわく感を描いた情景、「車引」の舞台、楽屋の様子、 「浅間ケ嶽」の舞台、興行が終わり皆で宴会する様子、と歌舞伎小屋での魅惑の一日を 網羅した、歌舞伎ファンにはたまらない画です。これらは役者絵のバリエーションを網羅して いるといっても過言ではないでしよう。新吉原も同様で、吉原遊郭での夢のような魅惑の一日を 余すことなく本作は無落款ではありますが、その卓越した描写力などから、役者絵と美人画で ならした国貞(三代豊国)以外に描ける絵師はいないとされ、現在では国貞の作とされています。 幕未の江戸風俗画の極致を御覧ください。」 ![]() 第4章の展示状況。 ![]() 「隅から隅まで 超極彩色密画「芝居町 新吉原 風俗絵鑑」三代歌川豊国(国貞)」 ![]() 「隅から隅まで超極彩色密画「芝居町 新吉原 風俗絵鑑」三代歌川豊国(国貞) 江戸時代後期 19世紀」 ![]() 「市村座 表掛(おもてがけ)」。 ![]() 「市村座 表掛(おもてがけ) 幟が立ち看板の下では木戸芸者が読立てをして客を招く。赤ん坊をおんぶして口を開けて 聞く女や、看板を仰ぐ丁稚や武士、商人などで賑わう。幕などに市村座の橘の紋がみえ、 木戸の格子も市村座特有の斜格子。看板に「三幅対書初曾我」とあり、天保5年( 1834 )正月の 上演の記録と一致する。三幅対は毛剃と箱根権現と姫小松、浄瑠璃は清元の「初霞浅間嶽」。 絵看板の細部までも丁寧に描いている。」 ![]() 「幕間」。 ![]() 「幕間 開幕を待つ客席では派手な喧嘩が始まっている。舞台には「木場」の文字と三筋が染められた 幕が引かれ、これは「新三升連」とあり団十郎の後援団体から贈られたもの、また下辺に 市村座の橘の紋がある。客席は舞台正面の平土間、一段高い高土間、その後ろの桟敷に 分かれる。桟敷は後ろに廊下があり、そこから出入りする。現在より舞台が張り出しており、 客席の一部は幕の内側になっている。」 ![]() 「車引」。 ![]() 梅王、松王、桜丸の三つ子の兄弟のうち松王は深慮があって藤原時平の舎人となり、 菅相丞方の梅王・桜丸が、吉田社頭でその牛車を押し止めようとする有名な場面。 ![]() 「車引 「菅原伝授手習鑑」の三段目。梅王、松王、桜丸の三つ子の兄弟のうち松王は深慮があって 藤原時平の舎人となり、菅相丞方の梅王・桜丸が、吉田社頭でその牛車を押し止めようとする 有名な場面。似顔から時平=五世松本幸四郎、松王=五世市川海老蔵、梅王=四世 坂東三津五郎、桜丸=沢村訥升と判るが、この役割での上演は見当たらない。」 ![]() ![]() 「舞台裏」。 ![]() 「舞台裏 楽屋の一階と舞台裏とを吹抜屋台風に描く。黒御簾の向こうに客席が見え、舞台では女六部に 扮した中村歌六かと思われる女方が藪畳の向こうの人物と錦の旗を引き合い、附がバタバタと 討たれてその藪畳から武将が現れるところ。小道具方も名鏡を出すタイミングをはかっている だんまりの場面。陰でせりふを付けるのか作者も居り、下座では三味線と大鼓小鼓が 奏されている。一方、楽屋の稲荷町連中は四天の扮装準備に忙しく、傍では狂言に因んた趣向か、 仕丁姿の面々が幹部俳優たちが差し入れる振舞酒を頂戴する酒番の場面。手前の廊下右方で話を しているのは三世尾上菊五郎と六世岩井半四郎らしい。」 ![]() 「浅間ケ嶽」。 ![]() 「浅間ケ嶽 舞台で上演されるのは天保5年(1834)正月市村座での「三幅対書初曾我」一番目四立目浄瑠璃 「初霞浅間嶽」で「市村座表掛」の看板のとおり。五世市川海老蔵の京の次郎が焚く起請の 煙の中に三世尾上菊五郎の傾城奥州の亡魂が現れる。ニ人の顔は後見の差し出す面明かりの中に 浮き上がる。舞台奥には清元の出語りが見え、舞台下手の隅では舞台番(監視役)が後ろを振り 返って注意する。」 ![]() さらに展示品をIphoneカメラで追う。 「芝居茶屋」。 ![]() 「芝居茶屋 観劇の後、御殿女中ニ人が芝居茶屋ニ階に役者衆や芸者、幇間(ほうかん)を招き、豪勢な 宴をはる。描かれた役者は中央奥で三筋の扇に揮毫する五世市川海老蔵、黒羽織で青い扇を 持つニ世中村芝翫、相対して盃を後ろに引く四世坂東三津五郎。左の階段を上った黒い羽織の 三世尾上菊五郎、その後ろ振り返る沢村訥升。右の衝立の近くに座る岩井紫若。紫冒子をつけ お中臈(ちゅうろう)と挙をする縞の着物の六世岩井半四郎、手前で挙に興じ両手を膝につく ニ世中山文五郎。」 ![]() 「仲之町の桜」。 ![]() 「仲之町の桜 大門を入ると繁華街、仲之町で、両側に茶屋が並ぶ。有名な引手茶屋の山口巴の暖簾が見える。 仲之町の桜は寛延2年(1749)、茶屋の店先に桃・桜の鉢植を出したのが初めで、桜を植えたのは 1、2年後のこと。毎年2月下旬(旧暦)に植え付け、3月3日、4日の紋日を中心に仲之町の花見は 廓のー大行事。花の下を歩く遊女や禿(かむろ)、客引きをする男、茶屋の座敷では芸者が音曲を 奏で花見の宴たけなわ。」 ![]() 「格子先」。 ![]() 「格子先 江戸町一丁目には一流の妓楼が並ふ。妓楼の入ロの籬(まがき)には店の若い者が提灯を持ち座る。 べんがら格子の内側が見世で、暮六ツ(午後六時頃)になると見世張リの遊女がここに並び、 振袖新造が三味線の清掻(すががき)をにぎやかに弾き続ける。通りには格子窓を覗き込む遊客や ひやかし、地廻りや座敷へ向かう芸者など、人通りも繁くなる。見世は引け四ツ(九ツ・零時)まで 開いていた。」 ![]() 「表座敷」。 ![]() 「表座敷 妓品の高い遊女は、ニ階に複数の広い座敷を持ち、調度にも贅を凝らした。床の間に法橋某の 山水画、立花、琴、違い棚には守り本尊、巻物、本箱、文机等が見え、長持と赤地の夜具、 衣桁には打掛が飾られる。床の間を背にした三人が客人で、若旦那とお供の半可通と宗匠と いった雰囲気である。総花も出て、返礼の水台も据えられ、幇間、男女の芸者、朋輩女郎などが 賑やかに宴を盛り上げている。」 ![]() そして全ての展示品の鑑賞を完了。 再び「歌舞伎を描く 豊原国周生誕190年 秘蔵の浮世絵初公開!」ポスター。 静嘉堂文庫美術館と時期を同じくして、太田記念美術館でも「生誕190年記念 豊原国周」 が開催されているとのことであった。 ![]() 「KABUKI PRINTS・歌舞伎絵」と。 ![]() 「歌川国貞(三代豊国) 江戸生まれ。幼くして初代歌川豊国に入門。画号は一雄斎、五渡亭、番蝶楼など、 豊国襲名後は一陽斎など。父庄兵衛は、江戸本所五ツ目の渡船場を経営。 初筆は文化5年(1808)の合巻「鏡山誉仇討」、錦絵の上限作は文化6年3月とされる。 国貞時代より晩年まで役者絵、美人画で活躍、特に五渡亭時代に三枚続や大首絵風の美人画に 優品が多い。香蝶楼国貞の名では柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」(1829 ~ 42)の挿絵が知られ、 これを錦絵化した「源氏絵」は、国貞錦絵の売り物となる。 弘化1年(1844)、二代豊国を称すが、今日では三代目に数える。錦昇堂から刊行された 役者大首絵シリーズは画業の集大成。生涯に描いた作品数は全浮世絵師中、最大数量で、 広重、国芳らと共に幕未浮世絵界を牽引した。」 ![]() 「豊原国周 江戸生まれ。俗称八十八、本性は荒川.はじめ長谷川派の豊原周信に師事し、役者似顔絵を学び 羽子板押絵の原図を制作。嘉永1年(1848)、三代豊国に入門。画号は一鶯斎、鶯斎など、 美人画・役者絵を得意とし、特に明治2年(1869)の人形町具足屋嘉平兵衛を版元にした 役者似顔大首絵シリーズにより「役者絵の国周」として知られ、後世、小島鳥水によって 「明治の写楽」と称せられた。また、明治中期の三枚続の大画面に一人の役者の半身像を描く 斬新な構図を開拓したほか、写真の流行する時代の影響を受け、陰影法を用いるなど、 明治浮世絵に新境地を開いた。83回引っ越し、妻も40回以上かえたという奇行の持ち主。」 ![]() 「顔出しパネル」。 ![]() 上記「顔出しパネル」の絵は「豊原国周「間ロ廾五間奥行卅間余 新富座本普請出来之図」 大判錦絵三枚続 明治11年(1878) 1月」 ![]() 「静嘉堂@丸の内ミュージアム ショップで好評発売中!」と。 河鍋暁斎「地獄極楽めぐり図」静嘉堂文庫美術館蔵とは・・・ 日本橋の小間物問屋、勝田五兵術の娘・田鶴は、明治ニ年(一八六九)三月十日に、十四歳で早世 してしまう。本作は、田鶴の追善供養のために五兵衛が暁斎に依頼したもの。 内容は何弥陀三尊の案内で、観光旅行するかのように冥界見物し、先に亡くなった親族と 再会したり、芝居見物をしたり、問魔大王と宴会したりして、やがて極楽に到着するというもの。 愛娘が現世同様あの世を楽しむ様子を絵で見せることで、遺族を慰めるべく、暁斎が心血を 注いで描いた名品です。」 ![]() 「河鍋暁斎「地獄極楽めぐり図」。 ![]() 大きなTVモニターでは 「ビデオ上映プログラム 静嘉堂@丸の内 歴史と名宝 10分 仕掛け絵の世界 5分」と。 ![]() 「歴史と名宝」では「国宝《曜変天目(稲葉天目)》 南宋時代 12~13世紀」の 紹介ビデオが。 ![]() 「中国南宋時代作られ完品が現存するのは3碗、中でもひときわ華やかだとされる」と。 ![]() 「徳川家光が乳母の春日局に下賜したとされ長らく稲葉家に伝わった」。 ![]() 「1934年 岩崎小彌太の所有に」 岩崎小彌太は明治12(1879)年、彌太郎の弟・彌之助の長男として東京で生まれた。 ![]() 「窯の中で生じた釉薬の奇跡的な変化が生み出した神秘の世界」。 ![]() 「小彌太は「天下の名器を私に用うべからず」として使用することは一度もなっかったという」。 ![]() 「黒の奇跡・曜変天目の秘密 2025年4月5日(土)~6月22日(日)」に開催されると。 ![]() 開催中!「藤沢と江戸の出版事情 蔦屋重三郎と絵師たち 会期 2024年12月24日(火)~2025年2月24日(月/休)」と。 ![]() そして隣りにあった「ミュージアムショップ」を訪ねた。 ![]() 国宝・曜変天目「稲葉天目」をモチーフにしたオリジナルグッズは絵はがき、ハンカチ、 ぬいぐるみ、アロハシャツ・・・と充実の品揃えであった。 ![]() 「アロハシャツ」。 ![]() 「曜変天目ぬいぐるみ」。 ![]() 「ほぼ実寸の曜変天目ぬいぐるみ」。 ![]() これが本物の「曜変天目」の写真か? ![]() 本物をネットから。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2025.05.02 07:35:59
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