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JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.05.25
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カテゴリ:JINさんの農園
「浅草寺」の「本堂」の裏の広場の北側の緑地帯には多くの石碑、石像等が並んでいた。
東側から「大谷米太郎夫妻像」。 

本堂裏築山周辺 | 浅草大百科

大谷米太郎夫妻像」。
宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くした大谷夫妻壽像で、昭和42(1967)年10月造立。
夫妻の胸像は、昭和37(1962)年に朝倉文夫により製作された。



ズームして。
大谷米太郎翁・さと子夫妻」 の胸像。 
大谷米太郎翁は明治14年(1881)~昭和43年(1968) 86歳で逝去。
昭和15年(1940)、一代で大谷重工業を設立。 東京オリンピックを機に
ホテル・ニューオータニを建設した実業家。



大谷米太郎翁寿像記
翁ハ明治14年富山縣ニ生ル壮ニシテ上京大谷製鋼所ヲ創立シ社運隆々今日ノ大ヲナス夙ニ大慈ニ
帰依シ浅草寺信徒総代トナリさと子夫人ト共ニ宝蔵門ノ寄進ノ外伽藍ノ復興に尽力シ衆庶ノ信仰ヲ
荘厳ス其ノ功徳永ク金龍ト俱ニ輝カン 
                      昭和四十二年十月一日」 

宝蔵門、現在の門は浅草寺の山門として、内部三層のうち上部二層に近代的な防災設備を施した
収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として大谷重工業・ホテルニューオータニ創始者の
大谷米太郎氏のご寄進により復興再建された と。



天下泰平 奉納大乗妙典六十六部供養佛」碑。 
六十六部とは、六部ともいわれ法華経を書写し、それ を日本全国六十六州の神社仏閣の霊場に
奉納して廻る行 脚僧のことであるとされ、その廻国巡礼の証とされる 石塔「廻国供養塔」が、
全国津々浦々に残されているのだ と。



消防殉難者表彰碑」 

浅草寺境内にある慰霊碑

石碑にズームして。
「消防殉難者表彰碑」は、宮内省から200円の下賜金を受け、警視庁消防職員が大正元(1916)年に
建立したもの。
表彰碑の手前の2本の石柱は、昭和36(1961)年に建立された江戸消防記念会の碑です。
毎年5月25日の「弥生祭」に、江戸消防記念会により慰霊が行われています。



表彰碑の手前の2本の石柱は、昭和36(1961)年に建立された江戸消防記念会の碑。
市部消防組」、「社團法人 江戸消防記念會



消防殉職者表彰碑
明治四十四年(一九一一年)当時の警視総監安楽兼通氏唱道によって享保四年(一七一九年)
江戸町火消(いろは四十八組)が創建以来、猛火の中に身を挺して職に殉じた方々の功績が年々忘れ
去られ消滅して行くことを憂慮し、これを後世に伝え永久に・・・・・・・」





「浅草寺」の「本堂」を裏側から見る。  



諸石仏
右 :「地蔵菩薩像」  堺町の山城屋萬之助が先祖供養のために建立
中央:「地蔵菩薩像」  延宝5(1677)年、木食阿闍梨安信和尚が建立
左 :「如意輪観音像」 享保20(1735)年、僧常念が建立



右:「地蔵菩薩像」堺町の山城屋萬之助が先祖供養のために建立。
法華経供養塔。



中央:「地蔵菩薩像」  延宝5(1677)年、木食阿闍梨安信和尚が建立。
   木の陰に隠れて。
(左:「如意輪観音像」 享保20(1735)年、僧常念が建立。)



竹本津賀太夫碑」。
 「大江戸のつよきひいきの力にぞ、かかる千曳のいしぶみはたつ」と刻まれ、
台石には百数十名の門下の名が列記されている。文政10年(1827)建立。



移動して。



手前に「初代並木五瓶句碑
月花のたわみこころや雪の竹」



現在の場所にどこからか移動したのであろう。



後方に「菅沼定敬の歌碑(すがぬまさだちか)
敷島のみちにはせきもあらなくに、なとてこころのとほらざる覧」と刻まれている。
嘉永3年(1850)建立。

菅沼定敬の歌碑

初代並木五瓶句碑
碑面には、正面に「月花のたわみこころや雪の竹」、右手側面に「なにはづの五瓶、東武に狂言を
出して、あまねく貴賤の眼目を驚かし、金竜の山中に雪月花の碑を築て、永く繁栄を仰ぐ、
つづくらん百三十里雪の人晋子堂大虎」、左手側面に「寛政八年丙辰十二月十日建之 
庭柏子書印」、裏面に「篠田金二迂造」と刻んである。
「なにはづの五瓶」は初代並木五瓶のこと。五瓶は大坂に生まれ、歌舞伎狂言作者として活躍した。
生存年代は延享4年(1747)から文化5年(1808)まで。はじめ五八、のち吾八・呉八・五兵衛と
改め、ついで五瓶という。寛政6年(1794)江戸へ出て、非凡な才能をみせ、初代桜田治助と
ともに、江戸の二大作者と謳われた。時代物・世話物に優れた作品を遺し、4代市川団蔵、
4代松本幸四郎らによって演じられた。作品には、「金門五山桐」「隅田春奴七容性」
「富岡恋山開」「幡随院長兵衛」などがある。
                平成6年(1994)3月 台東区教育委員会」
  


左手前の石碑「山東京伝 机塚の碑」。
 


山東京伝机塚の碑
            台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺内
山東京伝(一七六一~一八一六)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著し、北尾政演の画号で
浮世絵もよくした人物。
この碑は、京伝の弟原山が文化一四年(一八一七)に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰
「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を
生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし五〇年近くも使ったので、ゆがみ、
老い込んださまは哀れである」という意味の文と、「耳もそこね あし(足)もくしけて
もろともに 世にふる机なれも老いたり」の歌が記されている、また、裏面には、京伝と親交の
あった戯作者太田南畝の撰による京伝の略歴を刻む。
京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成二年に台東区有形文化財として登載。
平成六年三月
                台東区教育委員会」 



手前左が「山東京伝机塚の碑」。
 


その左に「十万人講供養塔」。
十万人講は、享保6(1721)年の観音堂修繕に際し、別当公然僧正が組織した講中。
その時の施主名簿が収納されています。
 


「​宮古路豊後掾(みやこじ‐ぶんごのじょう)の墓​」👈️リンク
宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう・1660年- 1740年)は、江戸時代中期の浄瑠璃の太夫。
京都の生まれ。都国太夫半中、都路国太夫、宮古路豊後、宮古路豊後掾橘盛村とも。
天文庚申 還國院本譽自性居士」と。
享3(1746)年の建立 と。



釘供養塔」。

正面から見た「釘供養塔」、由来などが何も分からない。
もしかしたら裏面に書いてあるのかな?見たいが芝生で柵が。

「釘供養塔」は今や電動工具で釘を打つ時代だから、釘を使う大工さんは減っている。
今はどういう人たちが「釘供養」をしているのだろうか?!
 


「阿弥陀如来像」
この「阿弥陀如来像」は「針供養塔」に関わるものであっただろうか?
 


釘供養会
「釘供養会」とは、仏教の儀式の一環で、特に亡くなった人のために、釘を打つことによって、
その霊魂を慰め、冥福を祈る行為です。これは、特に釘念仏と関係があり、地獄での苦しみから
解放されることを願う信仰に基づいています
写真はネットから。

イベント・お知らせ | 公益社団法人東京中小建築業協会ホームページ

ここにも一番手前に「宝篋印塔」。 



寛延2(1749)年に建立の宝篋印塔。



台座上に十六羅漢像が陽刻されていた。



そして「九代目市川団十郎「暫(しばらく)」の像」。 
浅草寺境内、浅草寺本堂裏広場にあるのが、九代目市川團十郎像(暫像)。
9代目・市川團十郞は、明治時代に活躍した歌舞伎役者で、『歌舞伎十八番之内 暫』
(元禄10年に初代市川團十郎が初演)は、9代目上演してから一幕物として独立したという
十八番(おはこ)。




大正八年 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目
市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました この銅像は 近代彫刻の先駆者
新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました 
ところが第二次世界大戦中の昭和十九年十一月三十日金属回収のため この「暫」の銅像も
供出の命を受け 四十余年を経てまいりました
この度 十二代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり 浅草寺の御理解のもと 多くの
方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました 十一代目並びに十二代市川團十郎
父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります
こののちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本國民は
もとより世界の人々からも 幾久しく愛されますことを願ってやみません
  昭和六十一年十一月三日    宇野信夫 撰書
    九代目市川團十郎「暫」銅像復元建設委員会
       十二代市川團十郎
       浅草観光連盟
       松竹株式会社」



清原武衡(きよはらのたけひら)が、自分の意に従わない人々を家来に命じて斬ろうとする
ところに、「しばらく」という声とともに鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)が登場し、
人々の命を助けるというストーリーです。
江戸歌舞伎では、俳優は芝居小屋と1年ごとに契約を結びました。その契約のスタートする11月の
興行は「顔見世(かおみせ)」とよばれ、一座する俳優の顔ぶれを披露する最も重要な年中行事
でした。この「顔見世」で上演される作品には、おもな俳優が一堂に会し、「しばらく」という
声とともに登場する正義感あふれる人物が、悪人に殺されかけている人々を救う場面を組込む
慣習がありました。
「顔見世」で上演されたさまざまな作品で、何度も演じられたこの場面は、次第に洗練されていき、一定の演出が完成しました。明治以降は、この場面を『暫』として独立させて上演するようになり、
現在に至っています。このような経緯で誕生したため、ストーリーを楽しむというよりも様式化
された演出を楽しむ演目といえます。
主人公は代々の市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が得意とした「荒事(あらごと)」で
演じられるため、『暫』は團十郎家の「家の芸」である「歌舞伎十八番」の1つに数えられて
います。




ズームして。



現市川團十郎の「暫」。
 
十一代目市川海老蔵 改め 十三代目市川團十郎白猿の襲名公演が決定!〜見る前に知っておきたい襲名のこと(堀越一寿) - エキスパート -  Yahoo!ニュース



「​堀越秀像銘並序👈️リンク
大正戊午九月。銅鑄堀越秀演技像成。堀越氏者倡優名閥。世稱市川團十郎。秀其七世第五子。
天保戊戌十月十三日。生於江戸木挽街。弱冠以技名天下。明治甲戌七月。襲稱曰九世團十郎。
癸卯九月十三日。病歿茅碕別業。饗年六十有六。事具伊原敏郎撰傳中。秀壯遭中興之運。
目睹庶事維新。心有所期。誓欲脱倡優之陋習。於是縄己謹廉。遂能爲士林所齒。豈可不謂卓於往。
而赫於來者邪。像之成在秀即世十五年後。其嗣福三郎。請陶庵西園寺侯書跌前。又嘱余銘。
余嘗與秀相識。喜其為人。且謂倡優之技雖卑乎。有關於教化也。乃為之銘。曰。」 

優孟九世傳衣冠。名噪天下十郎團。

睅目隆準顔塗丹。矮軀亦作長身看。

其止端重邱山安。其動遄迅鵰鶚搏。

音吐訇訇扣金盤。一呼堪息百夫讙。

奄忽云亡妙技殫。海澨秋陰葢柏棺。

惟見遺像立江干。千載兒女增永歎。

   鷗外森林太郎撰
   不折中村鈼太郎書

建設者 追善會委員
    門下一同」 

「大正戊午(7年)九月、銅鋳堀越秀演技の像成る。堀越氏は倡優の名閥なり。世に市川團十郎と
称す。秀は其の七世の第五子にして天保戊戌(9年)10月13日、江戸木挽街に生る。
弱冠にして技を以て天下に名あり。明治甲戌(7年)7月、襲ぎて九世團十郎を称曰(とな)う。
癸卯(36年)9月13日、茅ヶ碕の別業にて病歿す。饗年(享年)六十有六。事(事績)は
伊原敏郎撰の傳(伝)中に具(つまびらか)なり。秀は壮にして中興の運に遭う。維新の庶事を
目睹(目の当たりに)して、心に期する所有り。誓ひて倡優の陋習(ろうしゅう)を脱せんと欲す。
是に於いて己を縄(いまし)め謹廉(謹慎廉正)たり。遂に能く士林(立派な人)に歯
(なら:同列)ぶ所と為る。豈に往くに於いて卓(すぐ)れ而して来者に於いて赫たりと謂はざる
可けん邪(や)。像の成るは、秀の即世十五年後に在り。其の嗣福三郎、陶庵西園寺侯に跌前に
書するを請ふ。又余に銘を嘱す。余嘗て秀と相識り、其の人と為りを喜(この)む。
且つ倡優の技は雖(もと)卑なりと謂はん乎(や)。教化(まわりの環境の影響)に關わり有る也。
乃ち之が為に銘して曰く。」 とネットから。



後ろに廻り込んで。



1周して。




                                 ・・・もどる・・・



                ・・・つづく・・・







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Last updated  2025.05.25 05:04:04
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